「ネバーランドより」子ども啓蒙するということ

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 子どもに良いお話を与えたい、ということと、子どもに良い本を与えたい、ということは、似ているようではあるけれど、同じではない。

 良いお話、というのはストーリーである。
 子どもの想像力をかきたて、創造力を育むようなお話を求める気もちは私も人後に落ちない。けれども、それだけならば、媒体は「本」である必要はない。それこそ映画でもアニメでも演劇でも、ストーリーが伝わればそれでいいのだから。けれども私は、あくまでも子どもには「本」が必要なのだと主張したい。否、「本」であればいいというものでもない。あえて言わせていただくが、「活字」でなければいけないのである。それも、テレビの画面を貼り付けたようなアニメ絵本であったり、品性のないことばや貧弱な日本語を使ったものであってはならない。前回論じたとおり、書きことばの習得が考える力をはぐくみ、自分の思いを自分のことばで語れる子ども、そして、自立した人間に育ってほしいと願うからである。

 今回は、「ことば」の問題から「ストーリー」のことに話を進めたいと思う。
 このシリーズでも一度ならず書いていることだが、子どもに本を読んでもらいたい理由の中には、ともかく今目に見えている世界とはちがう世界の存在を知ってもらうということがある。子どもは本を読むことによって、自分以外の人の世界を知る。そして、他人の世界を理解してこそ、自分の生きている世界を大切に思うことができる。多くの世界を知れば知るほど、自分が現実に接している世界をかけがえのないものとしてとらえることができる。一つの世界しか知らない心の貧しい子どもは、今の生活がいやになると、こんなものはいらない、とすぐに軽んじてしまうようになる。少しばかり思い通りにならないことがあると、生きている意味がないように簡単に考えてしまう。おおげさかもしれないが、自殺したり人を殺したりする子どもは、自己への敬意というものがないのである。逆説的なようだが、「自分さえよければいい。他人のことはどうでもいい」という自己中心的な考え方は、実はだれよりも自分自身のことがどうでもいいのだと思う。

 しかしそれでは、いろんな人物、さまざまな社会のことを知るには本でなくても良いではないか、という結論に至ってしまう。今の子どもは、本を読まなくてもテレビやマンガは山ほど見ている。ゲームにだってストーリーがある。同じ民話を繰り返し聞かされていた昔の子どもや、子ども番組が乏しかった一、二世代前の子どもに比べたら、はるかにバラエティーに富んだ世界に生きているではないか……。

 確かに今は飽和状態とも言えるくらい、世の中はストーリーに満ちている。今から「斬新な物語」「誰も聞いたことのないような意表をついた設定のお話」を書くのは至難のわざと言ってもよいくらいである。情報過多のこの時代においては、何を聞いても、何を読んでも、「どこかで聞いたことがある」と思えてしまうからである。

 それくらいストーリーに囲まれて育っているのだから、本まで読まなくてもいいではないか、子どもたちはじゅうぶん「自分以外の世界」を知っていますよ、というのが今のおとなたちの論理だろう。実際問題として、母親たちは何度も同じ話を聞かせたり、同じ本を読んでやったりする面倒よりも、テレビやビデオを見せておくほうが楽だと思っている。家庭用ビデオデッキの普及がおとなをますます怠惰にさせている。

 私が子どもだったころも、すでにテレビの悪影響については語られていたが、幸か不幸か、テレビは決まった時間にオンタイムで見るしかなかった。テレビを見るためには、テレビ局の都合にこちらが合わせて生活しなければならなかったのであり、それができなければ永久にその番組は見ることができなかったのだ。
 ビデオデッキのおかげで、私たちはテレビの「時間帯」に自分を合わせなくてよくなった。番組を録画しておいて自分の都合のいい時間に見る自由を手に入れた。しかし、それと同時に、テレビを見る時間の「長さ」については歯止めがきかなくなった。そしてその節操のなさは子どもの生活にも入り込み、子どもたちが、見たい番組をいつでも何度でも見られる世の中になった。そして親は自分が子どもの相手をする代わりにビデオにお守りをさせることができるようになった。子どもの管理ができない親というのは、実は自分の管理ができない親なのである。

 そして、子どもがまだことばも覚えない先から、レンタルショップで借りてきたディズニー映画のビデオをつけっぱなしにして、昔話も名作もみな映像で先に見せてしまっている。アニメや映画は、見ている子どもを飽きさせないようにするためか、次から次へと性急に場面が変わり、「次はどうなるのだろう」とわくわくする気もちを封印してしまう。子どもはかんたんに結末にたどりつき、ページを繰る手間のもどかしさも、読み聞かせのお母さんが言葉を切って子どもたちの顔を見渡す時間も知らずに育つ。昔話の中ではほとんどせりふを持たないはずの主人公たちが、饒舌にしゃべりまくり、余計な行動をし、原作にない脇役たちが物語をあらぬ方向に引っ張っていく。

 白雪姫が「うつくしいお姫さま」であるということ以外何の情報もなかった時代には、子どもたちはきっとそれぞれの白雪姫を心に描いていたことだろう。その子の母親に似ていることもあれば、親戚のきれいなお姉さんの面影があることもあったかもしれない。あるいは挿し絵に描かれたお姫様を心の中で動かしてみる子もたくさんいたことだったろう。
 しかしステレオタイプ化された登場人物の姿が鮮やかにインプットされてしまったあとでは、物語は何の想像も生み出さない。白雪姫はどの子の頭の中でも黒い髪をして黄色いちょうちんそでのドレスを着たディズニーのアニメの映像でかたまってしまっている。それ以外の白雪姫の絵を描くと、わざわざ「それはちがうよ」と友達がご注進に来たりすることもあったりする。挙句の果てにすっかり結末がわかってしまっている物語を、だれがわざわざもう一度白い紙の上に並ぶ黒い活字で読み直そうとするだろうか。読んだとしても、ディズニーの映画に出てきた動物が現れない、あのときにあった話が出てこない、どんな王子でどんな姫なのか書いていないからよくわからない、などと、マイナス要素ばかりが働く場合もある。そうなると、「刷り込み」状態で映像が入っている子どもにとっては、原作のほうがつまらないと思えてしまうという場合も出てくるだろう。

 だから、一人でも多くの子どもに一冊でも多くの本を手渡したいと願う「文庫のおばさん」の立場から今のお母さんたちに言いたいことは、「本を読んであげてください」ということだけでなく、「アニメのビデオをなるべく見せないでください」ということである。本を読んであげること以上にかんたんなことだ。ただ、ビデオテープを家の中に置かなければよいのだから。ところがこのかんたんなはずのことが、本を読んであげること以上にできないお母さんたちがどうも多すぎるようなのだ。

 それでは映画もいけませんか、と聞かれるかもしれない。『ハリー・ポッター』が火付け役になったのか、ここのところ『指輪物語』『チョコレート工場の秘密』『ナルニア国物語』などがたて続けにヒットしている。こういう映画も、見せてしまうと原作を読まなくなるでしょうか、みせない方がいいでしょうか、という質問である。

 迷うところではあるが、実は私はこれらすべてを自分の子どもと一緒に見に行った。『ハリー・ポッター』と『指輪物語』は自分が見に行きたかったから。『チョコレート工場』は子どもが見て喜ぶかな、と思ったから。そして『ナルニア』については、最後の最後まで迷っていた。

 『ナルニア国物語』が映画になったと聞いたとき、まずは「見たくない」という気もちがあった。過去の人生において、少なくとも五回は全七巻を通して読んだ『ナルニア国物語』。それは他人が書いたものでありながら自分の世界になっており、他の読者と共有するストーリーでありながら、私には私のナルニアの物語があったからである。だれかの手で映画化されたものなど、思い描いていたのとちがう俳優、ちがうセット、ちがう印象の代物になるに決まっている。そんなものを見てせっかく抱いてきた「私だけのナルニア」を冒瀆されてたまるものか、という思いがあった。事実、私と同い年で私のようにナルニアを読んで育ち、すでに小さい子どももいない友人は、一言のもとに「あんなものは見ない」と断言した。

 その潔さをうらやましく思いつつも、文庫主宰者としてやっぱり見ておかないと意見も言えないから見ておくかな、とか、最初に一人で見に行ってから子どもに見せるかどうか決めようかな、とか、「映画は見ない。本を読みなさい」と言い切ろうかな、とか、さんざん逡巡したあげく、最後は二種類のストラップをもらうためという意気地のない理由で親子の前売り券を買ってしまった。ただ、公開までに半年以上あったものだから、夏休み中かかって、四年生の娘とともに『ライオンと魔女』を読み、『カスピアン王子のつのぶえ』も読んでから見に行った。うちの娘は、ほうっておいても長編を読みふけるような子ではないから声を出して読んで聞かせなければならず、なかなか厳しいミッションだったが、「映画を見る前に」というモチベーションのおかげで読み通すことができた。

 結果、感想としては「悪くない」といったところだった。少なくとも「見せるべきではない」と目くじらたてるようなものではない。戦いのシーンなどは迫力があって、私も子どもも食い入るように見てしまった。惜しむらくは主人公の子役たちに魅力がないので、『ハリー・ポッター』のシリーズほど次作が楽しみではないことである。しかしまあ、映画の全般的な出来としては、頭から否定するほどのものではなかった。

 では、頭から否定したくなるディズニーアニメとどう違うのかと言われると、これらのハリウッド映画には「原作に対する敬意」が感じられるのである。そんなことを言うと、子どもに人生を捧げたはずのディズニーさんは「えっ」と驚くかもしれない。けれども、昔話や名作のキャラクターだけ取り出して、あとは肝心のところを骨抜きとし、余計なものをべたべたとくっつけたディズニーアニメには、残念ながら「原作に対する敬意」は微塵も感じられないのである。

 私はディズニー作品すべてを否定するつもりはない。彼のオリジナルであるミッキーマウスやドナルドダックは大好きである。彼の死後も、ウォルト・ディズニー・カンパニーのオリジナル作品として発表された『モンスターズ・インク』や『Mrインクレディブル』『トイ・ストーリー』などは、親子で素直に楽しめる映画だと思う。けれども、子どもの想像力を奪い、原作を踏みにじるような作品に対してはやはり厳しい目を持ちたいものだと思う。 加えて、昔話や名作は映画にするには短すぎ、かなり砂糖や消化できないデコレーションで水増ししなければならないという宿命が伴う。しかし、同じ映画化でも、長編に関していえば、初めから、「極力原作に忠実に」が求められる。長編はもともとある程度読書力のある、年齢のいった読者が想定されているのだから、映画制作者も「子どもだましは通用しない」と思って取り組んでいる。そうやって、厳しい大人の読者の目を意識して作られたものと、ただ売らんかなでばらまかれたものとでは、質に差が出て当然である。

 『ハリー・ポッター』については、むしろ読書を促進した感がある。同時代に書かれた作品だから、受け手にとってまだ新鮮さが残っており、知り尽くされたストーリーの焼き直し、というイメージがない。勢い、映画を先に見た若者たちも、「原作を読んでみようかな」という気もちになる。すると、原作の方が映画よりも長いため、読んでみると映画になかったシーンや登場人物の葛藤が書かれていて、面白さが感じられる。ここがディズニー映画とのちがいなのである。原作の方をふくらませて作られた映画を見たあとでは、本の方が物足りなくなってしまう。それは読みたいという気もちを萎えさせる。「本より映画のほうがおもしろい」ということになれば、手っ取り早い映像が喜ばれ、めんどうな活字が敬遠されてしまっても仕方がないのである。子どもたちは自分でいろいろな想像をめぐらせるよりも、最初から絵に描いて動かしてもらったほうが楽で楽しいと思ってしまう。しかし、それは「噛まずにつるつると飲み込める食べ物の方がたくさん食べられる」のと同じ理論である。噛みくだかなければ味もわからないし、消化吸収もされない。

 そのことにおとなが早く気づいてやらないと、「物語はたくさん知ってるよ。だからもう新しい話を聞いてもおもしろくないや」と言って、実際は自分のまわりのせまい世界しか見えていない、近視眼的で心が肥満になっている子どもたちばかりになってしまう。ストーリーだけ与えてもだめだというのは、そういうことなのである。やはり活字の本を読んでもらいたい。

 四月から五年生になった娘は、今のところ独力で『ナルニア』の三巻目を読んでいる。映画で人気が出たために、どうやら友達と競っているらしい。がんばってもらいたいところだが、もし、自分で読むのがたいへんで、「お母さん、読んで」と言いに来たらいつでも一緒に声を出して読んでやろうと思っている。六年生になっても、中学生になっても、望まれればいつでもつきあうつもりでいる。
(2006年7月「ネバーランド」Vol.7に掲載)