「ネバーランドより」子ども啓蒙するということ

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 子どもを啓蒙するということについて、「ことば」「ストーリー」を取り上げてきたが、このシリーズの最後は「読後」全般について考えていこうと思う。

 結論から言えば、「読みっぱなし」でかまわないのである。
それは、決して最初から読まなかったのと同じということではない。一冊読めば、子どもの心には必ず一冊分の何かが残る。ただ、おとなは、どうしてもそれを確認しないと気がすまないところがある。文庫のおばさんである私自身も、子どもたちが本を開くだけで嬉しいと言っておきながら、読み終わった本を返しに来る子供達に対して、ついつい「おもしろかった?」と聞きたい衝動を感じてしまう。
 別に聞いてもかまわないのだ。子どもは必ずといっていいほど、判で押したように「うん。」と答えるのだから。ただ、その先まで突っ込んで聞くのはいかがなものかと思う。「どこがおもしろかった?」「どんなお話だった?」聞けば聞くほど、子どもは混乱する。感想を聞かれることは子どもにとって苦痛なのだと思う。そして、その理由は子どもとおとなでは事情が異なるようである。おとなは感想を求められてうまく言えない場合、それは「上手にまとめられない」「要領よく伝えられない」「ちょうどいい言葉が見つからない」などといった、表現上の困難によるものである。

 しかし、子どもは言葉をさがしているわけではなさそうなのである。早い話が、読み終わった直後であっても、今閉じた本の内容が「思い出せない」というのに近い。子どもは時間感覚がおとなと違うから、ものごとを「回顧する」ことが苦手なのかもしれない。
 このことには、小学生に国語の教材をさせているときに気がついた。私は公文式という学習プリント教室を持っているのだが、この公文式の、小学校三年生レベルとされている問題のなかに、「過去」と「現在」の区別をさせる問題がある。初めて見たとき、三年生にもなって時制がわからないことはあるまいに、どうしてこんな設問があるのだろう、と不思議に思ったものだ。

 「雪がふっています」と「雪がふっていました」では、何がどう違うのか、ということを区別させるだけのことである。ところが、この単純明快な問題を子どもにやらせると壊滅的に、できない。三年生はもとより、高学年でも国語の苦手な子はできない。そして、年齢的には低学年だが、そこまでのプリントを順調にこなしてきたために学年をこえてその問題まで到達した、という優秀な子どもたちが最初につまずくのも、実はこの問題なのである。
 「過去」「現在」「未来」という区分けができるようになるのは何歳くらいからなのだろうか。考えてみれば、そもそも「過去」と「現在」の境目がどこにあるのかなどということは大人にだってわからないではないか。

 おそらく子どもたちは、過去形で書かれた文章であっても、まったくオンタイムのつもりで読んでいるのだ。それは大人のもつ「臨場感」とは似て非なるものである。子どもにとっては、本を読んでいるときは、本の中の世界が現実そのものなのだから。
 「おひめさまは生き返りました。」
 「ました」と書いてあっても、おひめさまは子どもの眼前で生き返っている。ドラマは「すでに終わってしまったこと」ではなく、目の前で繰り広げられていなければドラマではない。子どもは「過去」には興味がない。昨日遊んだから今日は遊ばなくていい、ということはない。子どもは毎日同じ友だちと会い、毎日同じ遊びをする。同様に毎日でも同じ本を読み、同じように色鮮やかな物語を味わい、何度でも冒険し、何度でも感動する。

 読み終わった本について何か聞かれることは、子どもにとってはおそらくたいへん理不尽なことなのだろう。昨日食べた食事について、今口のなかがどんな味になっているか聞かれているようなものである。そう、子どもの読書は食べものにたとえるとずいぶんうまく説明がつく。一度読んだはずの本を何度でも開くことは、きっとおとなが好物の食べものを何度でも食べたくなるのと同じことなのだろう。毎日同じ味のコーヒーを飲むのが幸せなのと同様に、子どもは同じ絵本の絵を見て幸せに感じる。好きなものは毎日食べたいように、好きな人には毎日会いたいように、子どもは好きな本を毎日読みたいのだと思う。
 子どもが絵本の表紙をひらくとき、それは、おとなが今日もまた一杯の熱いコーヒーを飲んで「ああ、おいしい」と思うような瞬間であってもらいたいものである。刹那的で、感覚的で、ストレートで、いつでも新鮮な感動が与えられるものであってほしい。

 さらに、過去と現在の区別がつかないということは、「過去」が「現在」であるのと同時に、「現在」もまた「過去」なのである。禅問答のようだが、要は、ある意味子どもたちにとって、「お話」はいつまでも終わらない。お姫さまが王子さまに救われて結婚したら、二人は「いつまでも幸せ」なのである。そしてその幸福感は子どもの心にいつまでも残り、子どももまた「いつまでも幸せ」な気持ちでいられる。不幸な境遇やはらはらするような冒険をくぐりぬけて、さいごに「永遠の幸せ」にたどりついたとき、子どもはどれだけほっとして、喜びを感じることだろうか。おとなにとっても子どもにとっても、「これでもうだいじょうぶ」という安心感にまさるものはない。道でころんだり、幼稚園でケンカしたり、先生におこられたりして、夕方おうちに帰ってきたときのように、そこは心からくつろげて、ゆっくり眠れる場所なのである。それなのに、昨今では、その「永遠の幸せ」は、実はまだそれで終わりではないのだ、などと、わざわざ子どもに言って聞かせようとする大人がいるのには驚きを禁じえない。

 何ものにもかえがたい安寧の場所をとりあげて、「お姫さまはその後どうなったか」などという議論を子どもの世界に持ち込むなどは愚の骨頂だと思う。『シンデレラの続き』など、子どもたちにはいらないどころか、あってはならないものである。王子さまと結婚するだけじゃだめなんだ、お城にはお城の生活の苦労がある、嫁として生きていくのも大変なんだ、などと子どもに教えてどうしようというのだろう。まだこの世に生を受けて数年しか経っていない幼い子どもたちに、はるか遠い先の人生の困難を今からわからせておこうとでもいうのだろうか。「お話」は、もともと、最初から安穏なものではない。主人公は必ず遠回りをさせられる。だからこそ、必ずハッピーエンドで終わっているのである。「さいごは必ず幸せになって、もう変わることはない」という希望を思う存分繰り広げ、生きる楽しみを、生まれてきた喜びを、たくさんたくさん味わってもらうために。それでひとつの完成されたかたちなのである。おとなの勝手な思い込みでかきまわし、美しい完全体に傷をつけてはならない。

 子どもの本には、約束事やタブーが多い。いきおい、おとなの目から見ると単調で決まりきったものに傾きがちである。しかし、だからこそ、子どもの本にはなおいっそうの質の向上が求められるのである。毎日食べるものが、おいしくてからだに良いものでなければ、健康を損ねてしまう。毎日会う人が魅力のない人間であったら、いつしか疎遠になって、一人でいるほうがましだと思えてしまう。本がそうあってはならない。心の健康によいもので、人生を幸せに彩ってくれるものでなくてはならない。つまらない本ばかり与えられていたら、読書経験が生きる喜びにつながらず、読書そのものが魅力のないものになってしまう。それは人生までをつまらないものにしてしまいかねない。
 だから、ただパターンを守っているだけの底の浅いものは、すぐに飽きられ、捨てられてしまう。おとなの本なら飽きられても良いかもしれないが、子どもは本そのものに興味を失ってしまうおそれがあるから、うかつなものは渡せない。三十種類の栄養素が必要だからといって、人はカロリーメイトだけを食べて生きていかれるわけではない。料理法をかえ、調味料をかえ、くふうを凝らして毎日の食生活を豊かにしている。どうせ数時間たったらまたおなかがすくのだからといって、まずいものでも平気な人はいない。読書もまったく同じなのである。

 「おひめさまは生き返りました。」
 これはもう終わってしまったことですか、今起こっていることですか、これから起こることですか。……その問題に子どもが正しく答えられない。ある意味すばらしいことではないか、と思う。子どもの本を作る作り手には、そういう相手を読者としているのだ、ということを再認識してもらいたい。かれらは、受け取った絵本を何度でも開き、あざやかな絵を目の前で動かし、何度でも驚き、何度でも笑い、何度でも感動する。一度読まれたら古本屋に売られるペーパーバッグを作っているわけではないのだ。それだって、何万人もの読者に読まれることを思えば少しの手抜きも許されないのであろう。ましてや、ひとりの子どもが幼年時代にその本を心から愛し、いつまでもたいせつに思い、おとなになってからもなつかしくふり返る、そのことを考えれば、作る側にも喜びと誇りをもって世に送り出してもらいたいと思うのである。

 そして、選ぶ側…子どもに直接本を手渡す親、先生、文庫のおばさんも、やはり子どもと時を同じくしてもらいたい。子どもの時間感覚に同化しろ、というわけではない。過去・現在・未来、の三つに時を分けることを一度知ってしまったら、もう元にはもどれない。それに、時制を無視して生きるわけにはいかない。それはたいへん不便なことでもある。子どもたちもいつかは「時」の意味を知るのだ。ただ、三分割される前に知る「時」は、ほんとうの「時」、つまり「永遠に続く幸せな時間」であってもらいたいものだと思う。そのために、おとなは美しいもの、何度読んでも新鮮なもの、それでいて長い時間に耐えるものを作り、手渡していくべきである。

 子どもにとって、「読後感」などは存在しないのかもしれない。昨日読み、今日読み、明日も読む。子どもはただそれを繰り返しているだけである。読書の糧は知らないうちに心の中にたまっていく。感想などことばで言えなくたっていいではないか。
 おそらく、「おもしろかった本」は、今も「おもしろい」のだ。ロールパン・ママも、そろそろ「おもしろかった?」と子どもたちに聞くのはやめにしなければならない。どうしても聞きたければ、聞き方は……「この本、おもしろい?」 ……かな。
(2007年2月「ネバーランド」Vol.8に掲載)