「ネバーランドより」文庫育ちの子どもたち

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 「ハリー・ポッター」シリーズの最終巻には、正直がっかりさせられた。

 昨年夏、発売と同時に入手して夢中で読み始めたが、とちゅうでだんだん苦しくなってきて、数ヶ月かかってしまった。もちろん時間がかかった理由のメインは「英語だから」「長いから」であるが、それに加えて内容が期待通りではなかったのだ。最終章に近づけば近づくほど気が重くなり、読むのもめんどうになってきた。英語でなければそれほどでもなかったかもしれないが、たとえ言葉がすんなり読めたとしても、失望感は変わらなかったと思う。

 もう日本語訳が出てだいぶ経つから、内容に触れてもいいと思うが、エンディングが実にお粗末だった。発売前はあれほど世界をさわがせたのに、英語圏の人がほとんど読み終わったであろう時期がきても、物語のすばらしさを語る記事がほとんどなかったということは、みんな私と同じような感想をもったのではないだろうか。もちろん、日本国内の読者も。

 ヴェルデモードという悪に、ハリー・ポッターという善が打ち勝つのは、誰もが期待したことであり、そうでなくてはならない。その最低限の「お約束」は守られていたものの、その勝ち方には、まったく感動が生まれなかった。多くの仲間や同志が次々と命を落とし、ハリーの父も案外つまらない男であり、敵役のスネイプも結果的にハリーの側についたにもかかわらず救われないまま終わり、最後はハリーと親友たちだけが生き延びて、その後結婚して安穏に暮らしました、というのでは、この長きにわたる戦いから得るものは何もないではないか。ハリーは七年の魔法学校でいったい何を学んだのだろう。魔法の技術だけだろうか。そして亡き父と母から何を受けついだのだろうか。後世に何を残すのだろうか。何よりも、この長編大河ファンタジーを読破した子供たちに、どんなすばらしい世界を見せたというのだろうか。
 しかも英語圏の人々はキリスト教文化をバックボーンにしている。敬虔なクリスチャンであるかどうかは別としても、最低限の宗教哲学に裏打ちされた知性ある読者は、この尻すぼみのエンディングには少なからず拍子抜けしたにちがいない。

 ハリー・ポッターは、もはや単なる一主人公ではない。世界中の子供たちを読者とし、一体化したのだ。ハリーが見るものを子供たちも見る。ハリーが考えることを子供たちも考える。ハリーの人生が子供たちの人生ともなり得るのだ。だから、物語の結末は、ハリーひとりが救われるのではいけない。たくさんの不幸を土台にして自分と自分に一番近い者だけが幸運をつかんではいけないのだ。世界は一部の選ばれた者のためにあるのではない。物語のヒーローが身をもって子供たちにそれを示すのでなくて、いったいどこにファンタジーの価値があるのだろうか、と思う。

 ハリー・ポッターシリーズの作者が、読者として子供を想定していたのか、おとなを視野にしていたのかは知る由もないが、とちゅうから対象が変わったのではないか、という気もする。少なくとも四巻あたりから商業ベースを気にしはじめたのではないだろうか。あれだけ売れて、映画にもなれば無理もないのかもしれないが。あそこまで一斉を風靡してしまったら、もはや作者個人の手に負えなくなり、世界の読者が、そして作品にかかわったビジネスの世界すべてが、作品をあらぬ方向に持っていってしまったということも考えられなくはない。

 私は、この本のことを知ったときからの大ファンだった。最初から原書で手にしていたが、辞書を引くのももどかしく、知らない単語はとばしながら、先へ先へと読みすすめた。それは、おさないころ、意味のわからないことばがあっても、かまわず文脈をひろいながら、のめりこむようにしてリンドグレーンのシリーズを読みふけったころを思い出させた。まだやっと字が読めるようになった程度であったのに、物語のおもしろさに助けられてぐいぐいと引っ張られるように長編を読んだあのころ。ことばがわかるようになったから長編が読めたのではない。長編を読むことによって、語彙があとからついてきたのだ。そして、厚い本一冊読み終わるごとに、確実に、しかもめざましく、読書力がついていたはずだった。
 今回、多少無理してでも原書で全七巻を読み終えたのは、ひとつには「英語で読む」という行為が、長編という高い山に挑んだ幼少時代とオーバーラップし、読むこと自体に苦労する苦しさと、それでも先が読みたいという楽しさを同時体験できるあのワクワク感がたまらなかったからかもしれない。

 今、四十年前の私と同じ年齢の子に、同じ本を手渡しても、喜ばれることは少ない。ピッピやナルニアの世界は、今の子どもたちにはそれほどの魅力ではないのかもしれない。これらの本が数十年前の翻訳であることの問題点は、このコラムのシリーズ1で述べたので脇へ置くとして、私は文庫のおばさんとして、当時のシリーズものの長編に代わる新しい名作はないものか、と考えた。

 そのとき、彗星のごとく現れたこのハリー・ポッターシリーズがあったのである。単語がわからないもどかしさを払拭するほどのおもしろさ、そして外国語であるにもかかわらずまざまざと見知らぬ世界の情景が目に浮かぶような場面設定やストーリー運び。読書力が十分でない子供たちのハートをつかみ、魅了し、引っ張ってくれる救世主。実際「読書離れ」の風潮を一掃するかのように、書店には長蛇の列ができたではないか。子供へのプレゼントに『ハリー・ポッター』の本をプレゼントする親も続出した。この本を読むことをきっかけにして、読書のおもしろさに開眼し、もっともっとたくさんの世界を、活字を通して知る子供たちが育っていくことを、おそらくは私だけでなく、たくさんの人々が夢見ていたにちがいない。

 しかし、最終巻が書かれる前の映画化。四巻以降のゲーム小説もどきの展開。ハッピーエンドとは言えない結末。ハリー・ポッターシリーズは、児童文学界に巨万の富をもたらしたかもしれないが、本当に得るべき読者をのがしたような気がしてならない。
 わたしがハリー・ポッターの失策を嘆くのは、一読者としてではない。一個人としてなら、「なんだ、がっかりした!」と言って、読みかけの本を放り出すだけで事足りるのだから。
 わたしはロールパン文庫のおばさんとして、子の親として、学校の先生として、教育にたずさわる仕事をする者として、次世代の子供たちのために失望したのである。

 幼かった私が、あのころ、あんなに本を読んだのはなぜだったのだろう。
 おそらくは、親が買ってくる本しか読まない環境であれば、幼稚園や一年生のときに『長くつ下のピッピ』や『やかまし村の子どもたち』に出会うことはなかっただろう。だが、あのとき、あの年齢でそれらの本に出会ったことが、今の私の人生をもたらしてくれ、今の私の幸せの基本となったのだと信じている。そして、生きることのよろこびを教えてくれたいくつもの物語と出会ったのは、ほとんどが「ムーシカ文庫」という家庭文庫の本棚だった。言い換えれば、あそこにあれらの本がなかったら、出会いもなく、読書する幸せも知らずに育ったのにちがいなかった。

 今、ロールパン文庫で本をひらく子どもたちの中には、ほおっておいてもきっと本好きになったであろう子どももいれば、ここで出会わなければ一冊の本とも出会わなかったであろう子どももいる。どちらも私のたいせつな子どもたちだが、やはりこの場をはなれてからも、これからの長い人生で常に本と出会い、たくさんの世界をひろげてもらいたいものだと思う。

 人は一度の人生しか生きられない。が、近視眼的にせまい社会でだけ生きるのと、時空を超えた世界を知るのとでは人生の豊かさがちがう。高いオイルチャージを払わなくても、仕事や家事を休まなくても行くことのできる別世界。それが「本」だ。だから、ここで何冊読んだとか、何を読んだ、ということよりも、やはりこの先ずっと自分の手で本棚から本を選ぶ人になってもらいたい。いぬいとみこ先生、松永ふみ子先生に開いてもらった本の世界のよろこびを、次の世代に伝えたい。
 そして、あのときムーシカ文庫でたいせつな役割を果たしていた長編児童文学たちが、今わたしのロールパン文庫でいまいち本領を発揮できないのであれば、それにかわるお話、子どもたちをとらえてはなさないストーリーを求めたい。その思いに一番こたえてくれるはずだったハリー・ポッターがこんな終わり方をしたことに、失望以上に怒りすら感じてしまうのである。

 文庫は図書館とはちがう。
 読者のニーズにこたえるわけでもなければ、人気の本をそろえるわけでもない。貸し出し数を競うものでは、もちろんない。文庫と図書館は、役割がちがうものであり、そもそものスタートがちがうのである。

 その昔、といってもまだ、たかだか半世紀も前のことではないが、黎明期の文庫は、ある意味地域の図書館の役をになっていたかもしれない。
 本が読みたいけれども、本がない。
 本は高価であり、家庭で買える本には限界があり、学校の図書館も貧弱で、近所に図書館もない時代。
 子どもはどこでどの本を読めばいいのだろう。
 そんな時代に、本に飢えていた子どものために、自宅にたくさんある本を開放した主婦や、子どもの読書環境を案じて場所を用意した児童文学者たちによって、文庫は草の根のように広まっていった。

 けれども、たった数十年で子どもの環境もすっかり様変わりした今、文庫の存在価値はどこにあるのだろう。少なくとも、「本を供給する」だけではないことは確かだ。それなら文庫の意義はなくなり、とっくに絶滅していてもおかしくはない。実際、文庫の数も、そこに通う子どもの数も、激減していることは確かだと思う。けれども、わがロールパン文庫がそこにあるかぎり、目をかがやかせて本を手にとる子どもの姿が絶えることはない。かれらは、家に本があるから、学校に図書館があるから、といって文庫を必要としないことは決してない。むしろ親が買い与えた本を読まなくても、学校では一冊も読まなくても、ここでは読むのだ。

 文庫はイコール「家庭文庫」だ。
 そこに家庭の息づかいがあってこそ「文庫」なのだ。
 図書館にはそれがない。たとえどんなに快適で、本が無尽蔵にあろうとも。
 そして、逆に、家の本棚もまた「文庫」ではない。
 キリストはのちの教会を示唆して、「二人、または三人が集まって祈るところにわたしはいる」といったが、文庫もまた然り…「子どもが二人、三人集まり、文庫のおばさんがいるところに」文庫があるのである。
 文庫のおばさんが、一人一人の子どもの顔を思い浮かべながら「あの子はどんな本を読むかしら」と思い、一冊一冊の本を手にとってひらき、「この本はどんな子どもに読まれるのかしら」と思うところに「文庫」の力は働く。不特定多数の来館者のために、新刊や人気ランキングの高い本をひっきりなしに並べて予約を受け付ける図書館とは根本的にちがうのだ。文庫のおばさんは愛情と責任感をもって子どものための本を用意する。そうして手渡された本たちは、単なる紙の印刷物にはとどまらないパワーをもつ。どうしてそんなことがわかるかって? 証拠はここにある。私自身をふくむ、文庫育ちのおとなたち。わたしたちは今、文庫で読んだ本を心の栄養として生きてこられた幸せをかみしめている。あのとき、あそこで出会った本がなかったら、こんなに豊かな人生ではなかったと、心から信じている。そしてその喜びを、自分の子どもだけではなく、すべての子どもに分かちたいと、心から願っている。

 そういう意味で、文庫のおばさんは子どもと本をお見合いさせる仲人だ。仲人は、自分も気に入っている人しかお見合いの場に連れてこない。第三者が好きになれない人を、どうして相手の女性や男性が一生の伴侶として選ぶ気持ちになろうか、と思うからである。そしてそこには責任感もはたらくし、何よりも、「あんな人を連れてくるなんて」と自分自身が思われたくない、というプライドもある。
 だから私はいくら売れている本でも、自分が気に入らなければ文庫にはおかない。子ども達に要求されたら「その本はおうちで買ってもらうか図書館で読んでね。」という。そういうことがいえる時代になったからだ。豊かな少子化の時代にあって、本の量という意味で文庫が必要とされなくなった今、質という点でまだまだ存在意義を主張していきたい。もちろんそこに家庭的な「愛」があることが前提で。

 そして仲人ロールパン・ママは、今、ハリー・ポッターの結末が残念でならない。
 「申し分ないお相手だと思ったのにねえ。」と。 
(2009年4月「ネバーランド」Vol.11に掲載)