「ネバーランドより」子どもの読書力

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 今の子供は読書力が低下しているというが、今の親はそのことを嘆く一方で、子供から本を読む時間をとりあげていることも確かである。これは今に始まったことではなく「子供が忙しくなった。」と言われるようになってからもう二十年以上も経っている。「文庫育ち一期生」時代の私たちの時代でさえお稽古事も受験もあったはずなのだが、それでも今よりはましだったのだろうか。まあ、週一回文庫に通って本を読みふけるくらいのひまはあったのである。

 わが子を含めて、なぜこんなに今の子供たちが「忙しい」のか考えてみると、よく言われることに、「親が忙しい」ことが挙げられる。「女性の社会進出に従って働く母親がふえ、親子でゆっくり過ごす時間が少ない」のだ、と。だから子供を「ちゃんと育てる」ためには母親が家にいて読み聞かせをしたり遊んでやったりしないといけない、と。

 では、保育園や学童保育に預けられていない子供は情緒豊かでよく本を読むのだろうか。私が見ている限りではそうとも言えないと思う。親が家にいても子供はなぜか忙しい。その理由は手にあまるほどのお稽古事と勉強をさせられているからなのだ。むしろ集団保育を受けている子供の方が、保母さんや指導員に本を読んでもらって、お話にふれる時間が多いくらいである。

 自戒の念もこめて、親がそんなに子供の学校外教育に走る理由を考えてみると「今しかできない」という強迫観念に捉われ過ぎていることだと思う。ピアノ、水泳、英語、体操、そろばん、習字…。どれをとっても親は「今しかさせられない」と思っている。理由は二つ。一つは「おとなになってからでは遅い」という信念、いや、「信仰」。そしてもう一つは、「大きくなるともっと忙しくなるから。」という固定観念である。

 一つ目の、「早く始めなければ。」という思い。これは、子供の吸収力を見ると親なら必ず一度は陥る罠である。何をやらせても、教えれば教えただけ上達する姿を見ると、「大人になってからではできないことも、子供のうちにやらせればできるようになる。」と思い込む。英語を教えればたちまちネイティブのように発音し、ピアノを教えれば労せずして絶対音感を身につける。親は有頂天になり、「あれもこれも」と夢をふくらませる。しかし冷静になってみると、いくら単語の発音ができてもそれだけでは英語を話すようにはなれないし、ピアノが弾けても全ての人がピアニストになるわけでもない。それに、どの世界にいても「一流」と目される人は、いつそれを始めてもやはり一流になるのであり、目されない人は早く始めてもはやり一流にはなれないのである。それでも親たちは「少しでも早く」と生き急がせたいのだろうか。

 二つ目の、「大きくなると忙しくなる」という思い込み。たしかに中学生になると授業時間は長くなり、部活動も始まる。高校生になると通学時間も加わり、受験勉強もしなければならない。そうなると、親は本人の気に入っているお稽古事もやめさせて、少ない時間を「お勉強」に充てさせようとする。そういう行動をとる自分の姿が見えているのか、中学生になる前に躍起になってあれもこれも「させてあげよう」ということになる。「やらせたうえでやめさせる。」これが今の日本の親が子に与える「情操・体育教育」の実情かもしれない。本当のところは中高生になればその分体力も知力もついてくるし、時間のやりくりも自分で考えるようになるので、おとなが思うほど物理的に「時間がない」わけではない。それに、早期教育の成功の秘訣は「継続」にあるのだから、子どもが気に入っていることを一つか二つ、細く長くやらせる方がよほど効果的だと思うのだが。

 読書の話に戻ろう。
 わがロールパン文庫に来ている子供はほとんどがうちの公文教室に来ている子供である。文庫だけに来る、という子は残念ながらなかなか定着しない。そのかわり公文教室の子供は実に良く読む。生徒は五十人あまりだが、中には全く借りない子もいるのに、常に百枚以上の貸し出しカードが箱の中に入っている。

 また、教室時間中にもよく本を開いて読んでいる。プリントの採点を待つ間、一緒に帰る友達を待つ間、お迎えの家族を待つ間…。ひざの上に絵本を広げて食い入るように見つめている幼児、本を次々に手に取って選んでいるうちに一冊を読み始め、立ったままいつまでも読みふけっている中学生。そんな姿を見ているとぞくぞくするほど嬉しくなってきて、日本の将来も捨てたものではないと思えてきたりする。ただそこに本がある、というだけで、子どもは結構読むものなのだ。週に二回、本でいっぱいの小部屋に足を踏み入れる機会がある、というだけで子供達は勝手にどんどん本を読むようになっていく。

 しかし保護者の見方はいろいろである。ほとんどの保護者は純粋に本のある環境を喜んでくれていて、自分もいっしょに楽しんでくれるのだが、中には「本を読むのは待ち時間だけ。プリントが終わったらさっさと帰ってくること。」と指示する親もいるし、「家では読む時間がないから借りて来ないでね。」と子供に言っている親もいる。
 それでいてみな一様に嘆くのである。「うちの子は本を読まない。」「本を読まないから国語が苦手。」そして、高学年になってから、「今さら本を読めと言っても時間もないですしねえ。」と。そして進学塾で国語を習わせ、「本を読まないから成績が上がらないのですが、塾が忙しくて本を読む暇がないんです。」と、禅問答のようなことを言っている。学校に対しては「放っておいたら読まないから課題図書を出してくれ」と要求する。子供にしてみたら童話を読んだことがないのに高校に入っていきなり太宰治を読めと言われても、ラジオ体操もしたことがないのにフルマラソンを走れと言われているようなもので、「読めっこない」のである。しかし親や教師たちは「日本語が読めるのだから読めるはずだ」と言って「読まなきゃいけない」「読みなさい」などと、無理難題を言う。

 それでは小さいうちから子供に読書力をつけるために親ができることは何か。まずは自分自身が解放されることである。「子供がヒマになることを恐れない親」になることである。子供に「予定」は必要ない。先のスケジュールなど決まっていなくても楽しく、あるいは悲しく過ごせる子供の特権を親がとりあげてはならない。本を読む時間云々という前に、親が一度育児に対する恐怖感を捨て去ることである。「何をしてあげられるか」ということと同時に「何をしないであげられるか」ということも考えなくてはいけない。お話の中には、年間を通じて決まりきったスケジュールの中で忙しく過ごしている主人公などいない。人生という「お話」もまた然りである。そんなお話は魅力がなくそんな主人公は誰からも愛されない。

 「うちの子だけ取り残されたら。」と心配する親もいる。しかし、ピアノも水泳も英語も、実は大人になってからでもできることには案外気づいていない。時間はかかるだろうが、その分自分の意思と責任において、楽しくやりたいことをやればいいのである。また、中高生や社会人になっても、本当に好きなことはなら寸暇を惜しみ時間を割いて没頭できるものである。「今しかできない。今しか。」という強迫観念に捉われて子供時代をいじくりまわす必要などないのである。子供のときにお稽古事などひとつもやったことがなくても、豊かな人生を送ることはいくらでもできる。逆に、小さいときに多才で勉強がよくできたのに、大人になって無趣味な生活を送っている人は案外多いのではないだろうか。「登校拒否」「ピーターパン症候群」から始まって「パラサイト」「引きこもり」「ニート」へと続く現代病、あるいは現代気質をもった若者たちは、むしろ教育を受けすぎて、消化できない食べ物を無理やり口におしこまれた挙句、生きる力を失い、社会に適応できなくなったような気がしてならない。友達と過ごす時間すら減らされて、争いも挫折も知らずに大きくなった結果のことなのだと思う。

 では、本も早くから与える必要はないのだろうか。残念ながら読書についてはそうではない。子供のときに本を読んだことがない人が後年豊かな人生を送ることはないだろう。ピアノは「弾けるように」、水泳は「泳げるように」なればそれが何歳であっても大差ないが、子供時代の読書は、それこそその年齢でしか味わえない特別の喜びがあるのであり、それが一生を左右すると言っても過言ではない。その点について論じることは紙面の都合上できないが、すでにすべての人の共感を得、一致しているところである。それに、本の世界で子供は人との関わり方、喜び方、処し方、耐え方を多く学ぶことができるのである。 だから、子供を予定表から解放し、自由にした後ですべきことは、やはり大人が手を貸して読書の喜びを伝えることだと思う。子どもが手持ち無沙汰になって日がな一日テレビの前にすわっているのでは逆効果である。

 まず読んであげること。働くお母さんは保育園や学童保育にまかせておいてもいい。家にいるお母さんは近所の図書館や文庫の読み聞かせに連れて行くのもよい。家に大量の本をおいて子供に押し付ける必要はない。ただ、「今日エルマーのお話を読んでもらったから買って。」などと子供に言われたらぜひ買ってやってほしい。「まだ読んでない別の本を買ってあげる。」と言ったりはしないで。そして「読んで。」と言われたら自分の時間を割いて何度でも読んであげよう。「もう先生に読んでもらったんでしょ。」とか「字が読めるんだから自分で読みなさい。」などということは言わずに。それだけのことで充分である。
 一日に何冊、あるいは何分読んであげる、など「予定」や「ノルマ」を作る必要はない。それは再び子供を忙しくさせる。また、借りてきた本や買った本を子供が読まないからといって怒る必要もない。いやがる子供を無理やりすわらせて本を読み聞かせる必要もない。親が「本を読むよろこびを伝えたい」という気持ちをもっていて、子どもの読書を見守ろうという気持ちさえあれば、子どもは必ずいつか自分の好きな本に出会う。そのときにいっしょに喜んでやりさえすれば、子どもは必ず本が好きになる。

 引き際を心得つつ、大人が楽しんで子供を本に導いてやること(決して「うまく導く」のでなくていいから。それは図書館や文庫の人にまかせてしまおう)。読み始めたらいくらでも読ませてやり、読む時間をとりあげないこと。「読書環境」とは、ただそれだけのことなのである。
(2005年2月「ネバーランド」Vol.2に掲載)