「ネバーランドより」子どもの読書力

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 「子どもの読書力」についてコラムを書いている、と言うと、「大人はどうなんでしょう。」と聞かれることがある。

 「子どもの読書力」が成人後の読書力を左右するのであれば、逆もまた真なりで、本を読む大人がたくさんいれば、即ちその人々は子ども時代にも本を読んでいたということになる、と思う人がいるようである。或いは大人になってから本を読む人も結構いて、別に子どもの時に子どもの本を読まなかったとしても、大人になってみんなと同じ本が読めればいいではないか、とか、更に極端な場合、いくら子どもの頃にたくさん読んだとしても大人になって読まなければ何の役にも立たないのではないか、という意見が出てくることもある。
 つまり「子どもの読書力」についていくら論じても、小さい子は先のことがわからないからあまり意味がないということなのだろうか。あるいは人生のどこかで読書の喜び、あるいは楽しみを知るのであれば、早くても遅くてもたいして変わりはないと言いたいのだろうか。実際、ファンタジー好きの大人はたくさんいるし、「ピッピ」や「エルマー」を大人になって初めて読み、好きになったという人もたくさんいる。しかし、一つ覚えておいていただきたいことは、大人になってから初めて児童文学を読んだ人は、必ずと言っていいくらい、「もっと早く、子どもの頃にこの本と出会っていたかった!」と叫ぶ、ということなのである。

 「児童文学」という線引きがなくなってきた、とよく言われる。それも最近のことではない。しかも良いことのように言われる。子どもの文学とされるものを大人がよく読むからだろうか。児童書のコピーに「児童文学を超えた!」とか「これは『児童書』ではない!」などと嬉しそうに書かれるのはなぜだろう。「これはただの子ども向けの本ではない」ということを言いたいのだろうか。それとも大人が恥ずかしがらずに堂々と児童書を読めるようにと気をまわしてくれているのだろうか。いずれにしても、そもそもそういうことを書く人は「児童文学は子どもだましであって、本来は大人が読むに足るものではない」という前提のもとにそのような文言を考えている、と思えてならない。

 大人と子どもが同じ本を読む、ということは新しいことではない。大人のために書かれた『ガリヴァー旅行記』や『若草物語』『足ながおじさん』などは当初から子どもにも喜ばれ、逆に子どものために書かれた『モモ』や『ナルニア国物語』も大人に広く読まれている。このような例は枚挙にいとまがなく、私自身もそのような作品が多いことは喜ばしいことだと思っている。作者の意図する読者層が大人であれ子どもであれ、読むときの、あるいは読む人の年齢によって感じ方や理解の深さが変わるような本は、奥行きと魅力とを兼ね備えたすぐれた作品だからである。
 ただ、それだからといって「児童文学」という線引きが必要ない、あるいはなくそう、という考え方には賛成できない。ましてや作者が「大人の読者を意識して」児童書を書く、という行為には非常な不快感すら覚える。

 それでは、「児童文学」とは何だろうか。簡単そうで難しい問題である。 「子どもの視点で」「子どもの心で」ということがよく言われるが、実際に本を書くのは大人であり、それを選んで手渡すのも大人である。ここが大人の本との違いで、大人の本を書く人は自分なりの視点で自由にものごとを訴えかければいいし、読み手も自分で選び、自分で読んで自分で好みを判断する。しかし子どもの本は違う。子どもの本の作り手は、無防備な子どもの世界に、必要なものを正しく置いていかなければならない。作家は子どもの心をもっていなければいけないが、作家自身が子どもであっては困る。すると今度は「子どもとは何か」という問題にまで突き詰めていかなくてはならなくなる。イエス=キリストは一人の幼子(おさなご)を抱き上げて「誰でもこの幼子のようにならなければ天国に入ることはできない」と語ったが、この「幼子」の解釈については以後二千年にわたって論議を呼ぶところとなった。「子どものように純粋で無垢な心をもっていなければ救われない」という説明が一般的とされるが、時に子どもは残酷でずるいところがあるからである。子どもはまた、無知で自己中心的で自立していない。子どもは大人が思っているほど単純ではなく、天真爛漫であるかと思えば時にはあざとく、両手を広げてお母さん大好きだよ、と誰はばかることなく言うかと思えば、人に隠れて残酷なこともする。そんな子どもの姿を、かつて子どもであった大人たちは理解できずに途方にくれる。そのうち、大人だって一人一人違う人生を歩んでいるように、子どもだってそれぞれ個性があってひとくくりにはできない、早く大人になる人もいればいつまでも子どもみたいな人だっている、だから「大人」「子ども」という定義は無意味なのだ、と言い出す。その結果、それと同様に誰がいくつで何を読もうと自由だから、「大人の文学」「子どもの文学」なんて分けなくたっていいじゃないか、という結論に至ったりもする。

 しかし大人と子どもは違うのである。決定的に違うのである。自立の度合いが違うのである。児童文学とはまさに「自立に向かっていく子ども」にその道をつけ、その道を広げ、その道を見せるためにあるのだと私は思っている。その場合の自立とは、経済的社会的な自立のことだけではない。その年齢にふさわしい、その年齢でできる、精神的な自立である。おねしょをしていても自立している子どもがいるし、社会的地位があり家族を養っていても自立していない大人がいる、というのが私の持論である。

 もう十数年近く昔のことになる。どこかで五歳の男の子が誘拐されて車で連れ回されたあと、二、三日後に救出され保護されたという事件があった。犯人も逮捕され、無事な姿で警察署から出てきた男の子に報道陣が群がり、「怖くなかった?」「犯人はどんな男だった?」と矢継ぎ早に質問した。その中で、ある若いレポーターがマイクを向けてこう聞いた。「食事はちゃんとさせてもらっていたの?」すると男の子は首を横にふった。その若い男性レポーターは驚いて「犯人はご飯を食べさせてくれなかったの?」と言った。男の子は「うん。」と大きくうなずいた。そしてそのあと誇らしげにこう言ったのである。「自分でパンを食べた。」

 普段子どもに接していない大人には不可解なことかもしれないが、五歳の男の子にとって「食べさせてもらう」というのは食べ物を誰かに口に入れてもらうことである。この子は犯人が買ってきたパンを自分で口に運んだのだから「食べさせてもらった」ことにはならない。この子の考えを、大人は「無知だ」と笑ってよいだろうか。おそらくこの男の子のインタビューを見て感動したのは私だけではあるまい。この子はたった五歳で両親から引き離され、家にも帰れず見知らぬ人の車で何日も過ごさなくてはならなかった。それにもかかわらず無事に保護された時には泣きもせずぐずりもせずに自分の足でしっかりと立って、マイクに向かってはきはきと質問に答えたのである。「五歳の自立」を見せてくれたこの子に向かって「そのパンは犯人のお金で買ったものだろう。君は車に座っていて食べ物が運ばれてくるのを待っていただけなんだから『自分で食べた』ことにはならないよ」などと言う者がいたら、そちらの方が何もわかっていない人間である。しかしこの男の子もやがて学校に入り、さまざまな基礎知識を身につけ、友達と仲良くしたり喧嘩したりして成長し、受験や就職や結婚を経て人生の葛藤を経験したあとでは理解するだろう。パンは自分の手から口へと運ぶだけでは「自分で食べた」ことにならないということを。パンが自分の手に届くまでには幾多の人の手を通ることを。そしてそのパンを手にするにふさわしい人間になるために自らもまた努力しなければならないことを。逆にその年齢になってもまだ「お母さんに口に入れてもらったわけじゃないんだから自分で食べたんだよ」などと言う人間がいたらそれこそ笑い者である。ただの幼稚な人をさして「子どもの心をもっている」などとほめるわけにはいかないのである。

 児童文学の作り手はパンがどこから来るかを知っている人でなければならない。そのうえで、パンを自分で口に入れる子どもに敬意を払える人でなければならない。 一個のパンの重みを知っている人でなければならないが、いきなりパン工場の収支決算を見せてパンの有難さをまくしたてる人であってはならない。子どもに「パンはどこから来るのか」考える道を見せられる人でなければならないが、しかしその道を子どもがわき目もふらずにまっすぐに進むように強いる人間であってほしくはない。道草しながら楽しみながら、本と現実のあいだに境界線を引く前の年齢の子供たちに向かって、自分もまた境界線を乗り越えて行って語りかけられる人でなければならない。「神様、明日の朝ごはんのパンにどうかバターがたっぷりぬってありますように!」と心の底から祈る子どもの姿を、洗練された筆致で描いたアンデルセンはまさに叡智の人である。

 子どもに本を手渡す人もまた、書く人・出版する人と同じくらいの高い意識をめざさなければならない。私が「文庫」をもつ理由はそこにある。「読書力」は単に量の問題ではない。だから私は「今売れている」「読まれている」という理由だけでは本を文庫に置かない。文庫は図書館でも書店でも貸し本屋でもなく、「ここにある本ならばどれを読んでもだいじょうぶ。甘いお菓子でおなかいっぱいになって虫歯や病気になるのではなくて、ちゃんと心の食事になって幸せになれるものばかりですよ。」と言える、厳選された本の場所であるべきだと思うからなのである。ベストセラーや学校の推薦図書を置いていなかったがために子どもの読む本の冊数が一冊減ったとしてもそれを私は恥とはしない。しかしそれが子どもの世界をほんの少しでも広げるものならば、やはり一ページでも多く読んでもらいたい。ぜひとも、子どものうちに。そう言える大人の私が今ここにいるのは、子どものときに文庫に通ってたくさんの本を読み、あまたの世界と現実世界を、そうとは知らず行きつ戻りつ旅してきたからだと思う。物語の中にある道を、大人もまた見て楽しむことができることは確かだが、子どもは時にその道を本当に歩くことができる存在であることを忘れてはならないと思うのである。
(2005年5月「ネバーランド」Vol.3に掲載)